ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜ハンナ③〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

 

1サムエル記1章のハンナの話の続きです。これで最後です。

 

③エリの無理解と励まし

祭司(聖職者)のエリがハンナの祈りの様子を見ていましたが、あろうことかエリはハンナが酔っていると勘違いをしました。
そこまで真剣に祈っている人を、エリは見たことがなかったのかもしれません。
エリにまで理解されなかったハンナ。15節は少し苛立っているようにも読めます。
ハンナはエリに対して細かい事情は話しませんでしたが、募る憂いと苛立ちがあること、主の前に心を注ぎ出していたことを話します。
エリは事情を察したかどうかわかりませんが、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と励ましの言葉をかけます。

 

④祈りを通して変えられたこと
個人的に、1サムエル記1章のハイライトは18節ではないかと思っています。

18節「『はしためが、あなたのご好意を受けられますように』と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。

状況は何も変わっていないのに、祈りを通して、彼女の表情が大きく変わりました。
状況は変わらずにも、状況を見る「目」が変えられた、ということです。


ハンナが神様からどんな励ましを受けたのか、具体的には書かれていないので、想像することしかできません。
私の考えでは、
(1)いま自分の胎を閉ざしているのは神様であり、そのことには意味があるということ(5節には神様がハンナの胎を閉ざしていると書かれているように)
(2)然るべき時がくれば、神様は自分にとって本当に必要なものを与えて下さるということ 
(3)自分の募る憂い・苛立ちを神様は全てご存知で、この祈りを聞いてくださっており、この苦しみのただ中にも神様が共ににいて下さること
への確信が与えられたのかなあと思います。

また、しれっと「食事をした」と書かれていますが、7節、8節では落ち込んで食事をとろうともしないハンナが描かれていました。
夫に励まされても食事が喉に通らないほど落ち込んでいたにもかかわらず、祈った後には食べられるようになったのです。

 

この後、神様はハンナに、彼女の願った通り、男の子サムエルを与えられます。
ハンナの祈りが聞き入れられてサムエルが与えられた、ということには確かに大きな意味があり、サムエルは聖書のその後のストーリー的に大事な人物となっていきます。
ただ、あくまでもハンナの信仰においては、結果的にサムエルが与えられるか否かは大きな問題ではなかったのではと思います。
事が起こる前から、18節ですでに心に平安が与えられ、良い表情になり、食事もとれるようになったのですから。

 

ハンナのように心を全て注ぎ出して祈り、状況は何も変わらなくても、状況を見る目が変えられて、晴れやかな表情で歩めるようになりたいです。