ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

小さな命

最後の更新から何ヶ月も経ってしまいました。
何のご報告もせずに止めているのは不誠実だと思いつつも、このブログでどんな風にご報告すべきか悩み、ずっと更新できずにいました。
私自身、不妊治療中は、自分が望んでいることにも関わらず、不妊治療を通して妊娠・出産した方の話を聞くのがしんどい時期があったからです。
でも、もしも私の経験が少しでも誰かの励ましになるのであればと思い、書かせて頂きます。

 

タイミング法では授かる希望が見えなくなって、挑んだ人工授精2回目。
体力的にも精神的にも経済的にも疲れて、もう今回で治療は諦めようと思っていた矢先に、生まれて初めて妊娠をしました。
その後は妊娠10週頃に不妊治療のクリニックから産院に移り、それ以降も大きなトラブルなく導かれてきました。

 

しかし、心の中には、いつまでも疑っている自分がいました。
安定期に入っても、産休に入っても、正産期に入っても、
もしも無事に生まれて来なかったら」と、出産についていつまでも疑っていました。
もしも」が起こってしまった時に落ち込みすぎないように、妊娠中もなるべくそれまでと変わらずに過ごしていました。
予定日が近くなって、買い込んだベビー用品を開封する時も、開封しなければ人にあげることができるのに、本当にもう開けて大丈夫だろうか?と戸惑いがあり、衣類や布類の水通しは出産直前になるまでできませんでした。
授乳や沐浴の方法等については、実際生まれた後に学べばいいやと思って、産前にちゃんと予習しておかず、助産師さんたちに呆れられました^^;
そうやって、「もしも」を考えて疑いながら過ごすことで、自分の中でセーフティネットを築いて、傷つくことから自分の心を守ろうとしていました。
神様は私の想像をはるかに超えて、何をなさるかわからない方だから、それが怖かったのです。
それは、「神様がどんな道を用意していたとしても、私の思いとは異なっていたとしても、それは神様が用意されたものだから最善なのだ」という落ち着いた信仰ではなく、
「神様が何をなさったとしても落ち込まないように、期待せずに、自分でいろんな場合を想定しておこう」という、自分で自分を救おうとする心のあり方でした。
しかし当然のことながら、そんなことをしても不安は尽きず、心が落ち着かないまま、出産当日を迎えました。

 

そして、産声を上げて小さい小さい我が子が生まれてきたその瞬間、やっと疑いばかりの心が解放され、「神様は本当に成し遂げてくださったのだ」と感じました。
出産直後は消耗していて感動を味わう余裕がなかったのですが、母子同室が始まって我が子を眺めるようになってから、涙が止まりませんでした。
「生まれてきてくれてありがとう。この子は神様が送ってくださったんだ。」と。

 

不妊治療を経験しなかったら、子どもはあたりまえにできるものだと思ってしまったかもしれません。
多くの夫婦があたりまえのように与えられているものが、自分達夫婦の間にもいるだけ、という。
産後の怒涛の日々の中で、子どもが与えられることがどれだけの奇跡で、どれだけのめぐみなのか、考える余裕もなかったと思います。
不妊であったのに奇跡的に与えられたからこそ、この子の命が神様の手の内にあることを強く感じます。

 

不妊治療を始める頃に牧師先生に相談をしたときに、仰っていただけた言葉があります。
不妊治療だから、人工授精だから、体外受精だから、ということで、神様の領域の外のことであるということはない。
神様はもっと大きく、神様は世界の多くのものを用いて、御心を実現される方である、と。

神様のご計画の中で、不妊治療を経て、人工授精を経て与えられた、この小さな小さな命が、これからも神様の御手の中で成長し、神様と共に歩んでいけますように。

不妊と聖書〜エリサベツ②〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

前ということで、前回に引き続きエリサベツのお話です。

天使のお告げ通り、高齢だったにも関わらずエリサベツは身ごもりました。
そしてなぜか5ヶ月間引きこもったあと(つわり??)、こう言いました。
「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
これば、創世記30章で、不妊かと思われていたラケルという女性が、初めて子どもを産んだ時と同じ言葉です。
この言葉にははっとさせられました。
エリサベツは、とっくに諦めもついているような、出産の可能性のないような高齢になってもまだ、を背負いながら生きてきたのだと
彼女が受けてきた傷の深さを感じました。
この傷そのものは一生消えなかったでしょう。
しかしそれを遥かに上回る奇跡が起こりました。
エリサベツが、多数派の女性が当然のように受けてきた祝福を受けられずに傷ついてきたのは、人間的な希望が全て絶たれた中で、神のわざとしか言えないような祝福を得るため、それによって神様の栄光が表されるためだったのだと思います。
この「神のわざとしか言えないような祝福」がエリサベツの場合は子ども(それも、救い主を示す大切な存在であるバプテスマのヨハネ)だったわけですが、子どもに限らず、一人一人に与えられた祝福に思いを向けたいと思います。

その後、天使ガブリエルはマリヤのもとに現れ、受胎告知をします。
最初は驚いていたマリヤに対し、ガブリエルはエリサベツのことに言及します。
36節「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう6ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません。
それを聞いて、マリヤは素直に「おことば通りこの身なりますように」と言って受け入れます。(余談:英語では "Let it be to me according to your word." 名曲"Let it be"とも関わる名台詞です。)
そうです、神にとって不可能なことは一つもないのです。
これはマリヤにとっては処女降誕だってありうるのだという説得と励ましの言葉ですが、エリサベツにとってはどうでしょう。
不可能なことは一つもないのに、神様はあえて何十年間もエリサベツを不妊でいさせたのです。
そして誰もが不可能と思う時期に、エリサベツに男の子を授けたのです。
神様はなんて不思議で、人間の理解を超えた方なのだろうと思います。

受胎告知の場面の後、マリヤはエリサベツに挨拶に行きました。
エリサベツは、不妊の苦労をせずに若くして妊娠したマリヤに会って、複雑な思いもあったかもしれません。
私は不妊治療中、授かり婚や望まない妊娠の話を聞くたびに、それぞれの立場の大変さや苦しみがあるのだから羨んではいけないとは思いつつも、世の中はなぜこうも理不尽なんだろうと思っていました。
でもエリサベツは嫌味ひとつ言わず、マリヤの挨拶を聞いて聖霊に満たされ、祝福の言葉を述べます。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
これは、心からマリヤの立場に立って言った言葉だと感じます。
マリヤがこれから経験する様々な苦難や葛藤に思いを向けて、それでもなお神様の言葉への揺らぐことのない信頼を持つマリヤを祝福したのだと思います。
そして、もしかしたら、エリサベツに子どもが与えられることを信じられなかった、夫ザカリヤのことを覚えて、反省も込められていたのかもしれません。

このクリスマス、エリサベツの存在にも目を向けて、思いをめぐらしたいと思います。

 

 

不妊と聖書〜エリサベツ①〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

が近づいてきたので、イエス様の母マリヤと同じ頃に出産した人であり、バプテスマのヨハネの母である、不妊の女性エリサベツについて書きたいと思います。
クリスマスに語られる物語の中で、「マリヤ・ヨセフ・イエス様の一家」と比べると、「エリサベツ・夫ザカリヤバプテスマのヨハネの一家」は完全に脇役のような立ち位置です。
アドベントの期間中、礼拝の中でエリサベツについてあまり触れられない年があっても、誰も疑問に思わないくらいの存在感だと思います。
しかし、不妊だった私にとっては、エリサベツはとても興味深い人物です。

 

エリサベツについては、ルカの福音書1章に綴られています。
ザカリヤ・エリサベツ夫妻は神の前に正しい人で、ザカリヤは祭司という聖職者の立場でした。
エリサベツが不妊であったために、2人の間には子どもがおらず、登場時点ですでに高齢になっていました。
この夫婦はどんな思いをしながら、2人で歩んできたのでしょうか。
今のように多様な価値観や生活様式がなく、子どもがいないことは呪いのように思われていた時代です。
「正しく生きているのに、なぜ神様の祝福を得られないのだろう。」
不妊であることを嘲られるたびに、誰か他の人が出産するたびに、そう思ったのではないでしょうか。
もう出産が望めない年齢になってからは、子どもは完全に諦めて、2人で生きているのだって不幸なわけじゃない、神様から十分めぐみをもらって生きているじゃないか、と思えていたかもしれません。
でも、諦めたといっても、傷つかなくなるわけではありません。
何度となく傷ついたり、恥をかかされたりした経験が、頭から心から消えるわけではありません。
高齢になっても不妊ゆえの傷や恥を心に刻んだままだったことが、読み進めていくとわかります。
エリサベツはそんな女性でした。

さて、夫ザカリヤのもとに、後にマリヤの元にも現れる天使ガブリエルが現れ、エリサベツが男の子を産むということ、名前をヨハネとするようにということ、ヨハネは多くの人を神様に立ち返らせる人になるということが語られます。
ところが、ザカリヤは高齢のため信じることができず、その不信仰ゆえに、子どもが生まれて名前をつけるまでは言葉を話せなくさせられてしまいました。
一方、このお告げを聞いたときのエリサベツの反応は記載されていません。
ザカリヤが話せなくなってしまったので、ザカリヤが伝えるより早く、エリサベツは自分の身体の変化に気づいたかもしれません。
いずれにしても、人間的にはありえないタイミングでの妊娠が、エリサベツの身に起こることが伝えられたのでした。

 

長くなってしまいましたので、続きは次回。

 

 

芸能人の結婚報道に思ったこと

最近話題のある若い芸能人カップルの結婚に関して、あるメディアがこんな記事を書いていました。

要約すると、芸能人の結婚が30代以降ばかりになってきている中、20代で結婚した2人にはモデルケースとなってもらって、世の中の晩婚化のストッパーになってもらいたい。かつ子どもも望んでいるようだから、少子化を抑制する役割も期待される、という内容でした。

 

結婚を祝福する記事なのに、感動もほっこりもなく、違和感しか覚えませんでした。

 

まず何歳で結婚するか、そもそも結婚するかしないか、何人子どもを育てるかなんて非常にプライベートなことに、他人が口出しするべきではないというのが1点。

次に、たった1組の、それも特別な立場にいるペアの結婚というミクロな話を、晩婚化・少子化など経済的・社会的に複雑な事情も絡んでいる世間一般のマクロな話と結びつけていることへの違和感が1点。

そして個人的に一番気味悪く感じたのは、若く結婚したなら子どもをたくさん産めるだろうという前提に基づいて書かれている点です。

私自身25で結婚し、その後は今回に至るまで不妊でしたが、若いから不妊のわけがないと思われたのでしょう、親戚から「いつになったら子どもを作るんだ」と言われて非常に不快な思いをしました。

不妊でなかったとしても、キャリアややりたいことを優先させたり、夫婦2人の時間をしっかり持ちたかったり、各家庭で様々な事情があります。

各自の個人的な事情で、たまたま若いうちに結婚する選択をしたカップルに、そんな無意味な圧力をかけないでほしいと思うのです。

 

さらに言えば、日本の晩婚化・少子化については、芸能人の誰々が結婚したから、出産したから、私たちもしよう!というような幼稚な次元ではないはずです。
もしそんなことなら、とっくに解決しているでしょう。

 

メディアには、若い芸能人の結婚から出た妄想を綴るのではなく、晩婚化・少子化の波の中で生きている国民の声をちゃんとキャッチして、政府や自治体に届くように発信してもらいたいなぁと思います。

突然の卒業

前回の更新から1ヶ月以上経ってしまいました。
なんと実はこの1ヶ月の間に、生まれて初めて妊娠を確認し不妊治療のクリニックを卒業致しました!
こんなご報告をする日が来ることは夢にも思っていなかった(正確には、治療が長引く度に夢が遠のいていった)ので、自分でも本当に驚いています。
お祈りに覚えてくださったり、励ましたりしてくださった友人知人の方々には、本当に感謝です。


ブログを丁寧に読んでくださっていた方は、あれ?と思われたかもしれません。
というのも、9月末の時点で若干の出血があったので、またリセットが来たと思い込み、前回ブログの更新を行ったのですが、実はそれがリセットではなかったようです。
2日目、3日目になっても本格的な出血が始まらず、基礎体温も高いままだったので、いやいやまさか・・・と思いながら予定日の1週間後に検査薬を使ってみると、生まれて初めて陽性反応を確認できました。

3年近く不妊で、人工授精に切り替えて2ヶ月目での妊娠でしたので、自然には授かりにくい体であったのは確かなのだと思います。
人工授精によって妊娠する確率の8%の中に入ったのだなあと思うと、本当に不思議です。
それも、今回で通院をやめて、10月からは別の趣味や夢を追いかけようと本気で考えていたところでしたので、このタイミングで与えられたことも神様の面白い計らいだなあと思います。
まずは与えられたことに感謝しつつも、まだこの先何があるかわからない時期ですので、気をつけて落ち着いて過ごしたいと思います。
一旦卒業はしたものの、またいつ戻ることになるかもわからないので・・・。

 

現在不妊治療中の方や、治療はしていなくても悩んでおられる方で、このような報告を目にするのが辛い方もおられたかと思います。(私自身が実際そうでした。)
そのため、これからもこのブログは、妊婦としてではなく不妊治療を経た者の目線から綴っていきたいと考えています。
もしお付き合いくださる方がおられれば幸いです。

しばらくサボります

またリセットが来てしまいました。
リセットが来ても、もはや何も感じなくなりました。
涙が出なかったのはもちろん、ガッカリさえしませんでした。
来るべきものが来たな、くらいの感じで。

8ヶ月間クリニックに通い、その前にも2年半の不妊の結婚生活があって、
嫌というほど自分と向き合わされた中で、いくつかわかったことがありました。

不妊原因が不明で、効果的な治療法が結局わからないこと
・子どもが欲しい、というわけではなく、子どもがいないのが嫌だったんだということ
・2人で暮らしている今も不幸ではないということ
・子どもがいない人生は、いる人生と比べて劣っているわけではなく、
 神様がまた異なる計画を持っておられるのだということ

 

神様なぜですか?なぜ私には与えてくださらないんですか?と嘆きもがく中で、
この状況が奇跡的に変わって、子どもが与えられることが救いなのではなく、
この状況を受け入れて、前向きに生かされていくことが救いなのだと気づきました。

 

・・・そんなこんなで、しばらくサボってみようと思います。
数値の悪かった欠乏しがちな栄養はなるべく摂るよう、勧められたサプリは飲み続けますが、クリニック通いはしばらくお休みしようと思います

 

ブログの更新は継続したいと思いますので、もしお読みくださっている憐れみ深い方がおられれば、ぜひまたお越しくださればと思います!

不妊に生まれついたのは

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
エスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
ヨハネ福音書9章2〜3節

 

ある日、なぜだか知りませんが、夢の中で過去の森元総理の言葉が回っていました。

「子どもを一人もつくらない女性が、(中略) 年取って税金で面倒見なさいっていうのは本当はおかしいんですよ」

朝起きて早々、息苦しくなるほど悲しい思いに苛まれました。
どんなに世のため人のため働いても、ちゃんと納税しても、子どもを産めないという1点だけで非難され、生きる価値がないかのように言われるんだ。
好きで不妊になったわけではないのに。
選んでこんな身体になったわけではないのに。


20年近く前の森元総理の発言は、当時でさえ問題発言として取り扱われたようですが、今もまだ社会の中にこういう価値観が残っているんだなあと感じることが多々あります。
単にこどもがいないという事実以上に、そういう価値観や風潮が、余計に不妊の自分を苦しめていると感じます。

 

こんなふうに自分にはどうにもならないことで鬱々とするときに、いつも励みになるのが、冒頭の聖書のみことばです。
こうなったのは誰のせいだ。自分自身のせいか、配偶者のせいか、親のせいか、神様のせいか。
古今東西犯人探しをしたくなるのが人間の性分なのかもしれません。
でもイエス様は、二千年も前に、そういう議論の土俵から解放してくださいました。
私が不妊に生まれついたのは、私のせいでも、親のせいでもありません。
今の私にはわかりませんが、神様が不妊の私を用いてくださり、今は見ることができない神様のわざを見させてくださるのだと思います。
不妊の自分だからこそ見える・気づけることが、社会の中にあるのかもしれない。
こどもがいないからこそ、担いやすい働きがあるかもしれない。
私は神様の失敗作ではないし、自分の罪の結果の罰として不妊になったわけでもありません。
ただただ、神様がなんらかの意味を持って、私に不妊の道を歩ませているのだと。
そう思うことにだけ、救いがあります。