ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜エリサベツ②〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

前ということで、前回に引き続きエリサベツのお話です。

天使のお告げ通り、高齢だったにも関わらずエリサベツは身ごもりました。
そしてなぜか5ヶ月間引きこもったあと(つわり??)、こう言いました。
「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
これば、創世記30章で、不妊かと思われていたラケルという女性が、初めて子どもを産んだ時と同じ言葉です。
この言葉にははっとさせられました。
エリサベツは、とっくに諦めもついているような、出産の可能性のないような高齢になってもまだ、を背負いながら生きてきたのだと
彼女が受けてきた傷の深さを感じました。
この傷そのものは一生消えなかったでしょう。
しかしそれを遥かに上回る奇跡が起こりました。
エリサベツが、多数派の女性が当然のように受けてきた祝福を受けられずに傷ついてきたのは、人間的な希望が全て絶たれた中で、神のわざとしか言えないような祝福を得るため、それによって神様の栄光が表されるためだったのだと思います。
この「神のわざとしか言えないような祝福」がエリサベツの場合は子ども(それも、救い主を示す大切な存在であるバプテスマのヨハネ)だったわけですが、子どもに限らず、一人一人に与えられた祝福に思いを向けたいと思います。

その後、天使ガブリエルはマリヤのもとに現れ、受胎告知をします。
最初は驚いていたマリヤに対し、ガブリエルはエリサベツのことに言及します。
36節「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう6ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません。
それを聞いて、マリヤは素直に「おことば通りこの身なりますように」と言って受け入れます。(余談:英語では "Let it be to me according to your word." 名曲"Let it be"とも関わる名台詞です。)
そうです、神にとって不可能なことは一つもないのです。
これはマリヤにとっては処女降誕だってありうるのだという説得と励ましの言葉ですが、エリサベツにとってはどうでしょう。
不可能なことは一つもないのに、神様はあえて何十年間もエリサベツを不妊でいさせたのです。
そして誰もが不可能と思う時期に、エリサベツに男の子を授けたのです。
神様はなんて不思議で、人間の理解を超えた方なのだろうと思います。

受胎告知の場面の後、マリヤはエリサベツに挨拶に行きました。
エリサベツは、不妊の苦労をせずに若くして妊娠したマリヤに会って、複雑な思いもあったかもしれません。
私は不妊治療中、授かり婚や望まない妊娠の話を聞くたびに、それぞれの立場の大変さや苦しみがあるのだから羨んではいけないとは思いつつも、世の中はなぜこうも理不尽なんだろうと思っていました。
でもエリサベツは嫌味ひとつ言わず、マリヤの挨拶を聞いて聖霊に満たされ、祝福の言葉を述べます。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
これは、心からマリヤの立場に立って言った言葉だと感じます。
マリヤがこれから経験する様々な苦難や葛藤に思いを向けて、それでもなお神様の言葉への揺らぐことのない信頼を持つマリヤを祝福したのだと思います。
そして、もしかしたら、エリサベツに子どもが与えられることを信じられなかった、夫ザカリヤのことを覚えて、反省も込められていたのかもしれません。

このクリスマス、エリサベツの存在にも目を向けて、思いをめぐらしたいと思います。