ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜サラ③〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

サラの物語のクライマックス、創世記17章〜18章です。


創世記17章で、アブラハムが99歳、サラが約90歳になった時、神様がアブラハムに現れて、アブラハムとサラの間に男の子が与えられることを伝えます。
しかしアブラハムは自分とサラの年齢を考えて、そんなことがありうるだろうかと疑いました。

その後、創世記18章では神様から遣わされた3人の人がやってきて、今度はサラも居合わせている場で、「来年の今頃、サラには男の子が与えられる」と伝えました。
それを聞いたサラが心の中で言ったセリフ(12節)が、なかなか興味深いです。
「老いぼれてしまったこの私に、なんの楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
予想の斜め上をいくコメント(?)ですね。
今さら子どもが与えられるなんてあり得ない!という妊娠とか出産に限定したコメントではなく、自分のことも夫のことも「老ぼれ」とみなして、もうなんの楽しみもない、と、かなり卑屈になっているのが読み取れます。
サラは神様の祝福を得られない(とみなされていた)自分の人生を、呪ってしまっていたのかなと思います。

一方、神様は「サラはなぜ・・・(中略)・・・笑うのか。主に不可能なことがあろうか。」と叱ります。
サラは恐ろしくなって「私は笑いませんでした」と嘘をついて打ち消しましたが、神様は「いや、確かにあなたは笑った。」と言い残しました。

 

サラの心の中にはいろんな思いが渦巻いていたのではないかと思います。
神様に不可能なことがないのなら、なぜこれまでこどもを与えてくれなかったのか。
なぜこんなに卑屈になるまで、私を放っておいたのか。
笑いが出てしまうほどの境遇を味わせてきたのに、なぜ笑ったことを責めるのか。

(この「笑い」がのちのキーワードになっていくので、神様は責めるためにこの言葉を言ったわけではないことがわかるのですが、この時点ではただ笑ったことを咎められたように読めてしまいます。)

サラが笑ったことは不信仰からだったかもしれませんが、嘘をついて隠す必要はありませんでした。
なぜならサラの葛藤も悩みも、笑ってしまうほどの境遇も、全て神様はご存知だったからです。
「神様、なんてつまらないご冗談をおっしゃるんですか!こんな年寄りになるまで放っておいて、今さらそんなおかしな話がありますか!」って、笑いながらぶつけても良かったのかなと思います。
でももしかしたら、神様にその思いを伝えることを拒否するほどに、サラは傷ついていたのかもしれない、とも思います。

私も不妊とわかってから、卑屈になってしまうことがよくありました。
なんで?なんで?と頭の中が怒りの疑問符だらけになることがよくありました。
自暴自棄になって割り切ろうと思ったこともありました。
でもこの箇所での、卑屈になって第二夫人をいじめたり、神様の言葉をもはや信じられずに本音での対話も拒んだりしたサラにさえも、神様が向き合い続けてくださり、働きかけてくださったことは大きな救いだと感じます。

 

次回は創世記21章、サラの話は次で終わりにしようと思います。