ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜サラ④〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

サラの不妊としての物語の最後、創世記21章です。
神様は約束された通りの時期に、サラに男の子イサクを与えられました。
アブラハムが100歳、サラが90代の頃のことです。

その際、サラの口からほぼ初めて、喜びと神様への賛美が滲み出たようなセリフが溢れました。

6節「神は私を笑われました。聞く者は皆、私に向かって笑うでしょう

7節「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

アブラハムを「あの年寄り」呼ばわりなのが軽くツボなのですが・・・w
卑屈に笑うしかなかった自分の人生を神様が用いてくださり、誰もが笑うような予想もできない奇跡を起こしてくださった、その喜びを、サラはしっかりと噛み締めているように思います。
神様が18章15節で「いや、確かにあなたは笑った。」と言ったのはこのためだったのではないかと思います。
サラに「笑った」という事実をしっかりと覚えさせて、その「笑い」がのちに全く異なる形、感謝と喜びと驚きに溢れた「笑い」へと昇華したことに想いを向けられるようにしたのかなと思います。


その子イサクの乳離れの日には大宴会をして祝いました。やったね!

 

・・・ところが、これでハッピーエンドではありません。
かつてサラの提案でアブラハムがめとったハガルには、イシュマエルという子どもがいて、イシュマエルとイサクとの間でいざこざが起こってしまいます。
その際のサラの対応はあまりに神経質なもので、ハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言います。

 

創世記では、人間同士のドロドロと、神様の約束の確かさコントラストがよく描かれていると感じます。
神様から奇跡のようにしてこどもが与えられて、その瞬間には感謝や賛美をできたサラも、他人が目に入った途端にまた気持ちが曇ってしまいます。

私もきっとそうなんだろうなあと思います。
こどもが欲しいと願う今は、こどもが与えられたら心から神様に感謝するだろうと思うのですが、いざこどもができたら、他のママさんと自分を比べたり、こども同士を比べて、不安になったり悩んだりして感謝なんて忘れてしまうだろうなあと思います。

 

サラの物語は、嫌になるくらいリアルです。
サラは全然いい人でも、信仰的な人でもありません。
それでも、サラのように、たとえ一瞬であっても感謝できる時に、自分の人生の中で素晴らしいことを行ってくださった神様への賛美と感謝を口にしていきたいと思います。