ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜サラ②〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

 

アブラハムの妻サラのお話の続きです。
創世記16章の展開は昼ドラ並みにドロドロしています。

 

サラの提案を受けたアブラハムは女奴隷ハガルも妻とし、サラの狙い通り、アブラハムとハガルの間にはすぐに子どもが与えられます。
(「狙い通り」とはいえ、ハガルにすぐに子どもが与えられたことに複雑な思いがなかったはずはない、と不妊の私は思ってしまいます。)
ところがハガルは妊娠したことがわかると、横柄な態度になり、サラのことを見下げるようになりました
これは大変です。サラは子どもがいない苦しみから解放されるためにハガルとの結婚を勧めたのに、そのハガルが「妊婦様」になってサラを苦しめる存在となってしまったということです。
もしかしたら、「横柄な態度」と書かれてはいますが、「奴隷のくせに」「外国人のくせに」などの偏見や、「妊娠できて羨ましい」という嫉妬などの、サラの見方のフィルターが入ってていたではないか・・・と勘ぐってしまいます。
自分の提案だったにも関わらず、サラはハガルの妊娠とその横柄な態度に、また自分の中の嫉妬や劣等感などの感情に向き合わされ、怒りが頂点に達しました。

 

その後、5節でサラは夫アブラハムに「ハガルの横柄さはあなたのせいだ」と言って、アブラハムを責め立てます
どこへ持っていったらいいかわからない怒りを、アブラハムにぶつけてしまったのです。これはもはや八つ当たりです。
責められたアブラハムはこの問題と全く向き合おうとせず、あろうことかサラに対して「ハガルをあなたの好きなようにしなさい」と言いました。
サラの物語として読んでいくと、アブラハムは全く主体性も解決能力もない人だと感じてしまいます。
アブラハムの言葉を受けて、サラはハガルが逃げ出すまでいじめ抜きます

 

この箇所でのサラは完全に、今で言う不妊様」になってしまっていると思います。
ベストの選択ではないと知りつつも自分で招いたことなのに、夫を咎め、妊婦のハガルを憎み、いじめました。
誰が見てもこれは問題のある行動なのですが、サラだって自分に子どもが与えられてさえいればこんなことにはならなかったのに・・・と惨めに思っていたと思います。
アブラハムが信仰の父と言われるのに対し、サラが神様に祈り求める場面の描写はほとんどありません。(単にさほど重要人物ではないからかもしれませんが)
サラも、自分のどこに持っていったらいいのかわからない感情を、もっと神様の前に投げ出して良かったのではと思うのですが、何十年も不妊で苦しみ完全に諦めてしまった中で、神様への信頼が薄れてしまっていたのかもしれません。

 

いじめを受けて逃げ出したハガルは神様から「あなたははどこから来て、どこへ行くのか」「あなたの女主人(サラ)のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」「あなたの子孫は(中略)数えきれないほどになる」という言葉をかけられます。
神様からの励ましと助言を受けて、ハガルはアブラハムとサラの元へ戻り、息子イシュマエルを出産します。
サラがどんな風にハガルを迎えたのか、大変興味深いのですが、聖書にはその描写はありません。
その後しばらくはまた一緒に暮らしたわけなので、神様の言葉を受けてハガルが態度を改めたことで、少し和解できたのかもしれません。
サラももともといじめが目的ではなかったので、ハガルが逃げている間に少し落ち着いて、反省したのかもしれません。

創世記15章・16章は、無責任なアブラハム不妊様のサラ・妊婦様のハガルそれぞれの過ちが示される中で、アブラハムとサラという長年不妊の夫婦にも、アブラハムとハガルという政略結婚のような夫婦にも、それぞれに神様が語りかけ祝福してくださったことが読み取れる箇所でした。

 

次回はサラの物語のクライマックス(?)の創世記17章〜18章について書かせていただきます!