ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊に生まれついたのは

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
エスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
ヨハネ福音書9章2〜3節

 

ある日、なぜだか知りませんが、夢の中で過去の森元総理の言葉が回っていました。

「子どもを一人もつくらない女性が、(中略) 年取って税金で面倒見なさいっていうのは本当はおかしいんですよ」

朝起きて早々、息苦しくなるほど悲しい思いに苛まれました。
どんなに世のため人のため働いても、ちゃんと納税しても、子どもを産めないという1点だけで非難され、生きる価値がないかのように言われるんだ。
好きで不妊になったわけではないのに。
選んでこんな身体になったわけではないのに。


20年近く前の森元総理の発言は、当時でさえ問題発言として取り扱われたようですが、今もまだ社会の中にこういう価値観が残っているんだなあと感じることが多々あります。
単にこどもがいないという事実以上に、そういう価値観や風潮が、余計に不妊の自分を苦しめていると感じます。

 

こんなふうに自分にはどうにもならないことで鬱々とするときに、いつも励みになるのが、冒頭の聖書のみことばです。
こうなったのは誰のせいだ。自分自身のせいか、配偶者のせいか、親のせいか、神様のせいか。
古今東西犯人探しをしたくなるのが人間の性分なのかもしれません。
でもイエス様は、二千年も前に、そういう議論の土俵から解放してくださいました。
私が不妊に生まれついたのは、私のせいでも、親のせいでもありません。
今の私にはわかりませんが、神様が不妊の私を用いてくださり、今は見ることができない神様のわざを見させてくださるのだと思います。
不妊の自分だからこそ見える・気づけることが、社会の中にあるのかもしれない。
こどもがいないからこそ、担いやすい働きがあるかもしれない。
私は神様の失敗作ではないし、自分の罪の結果の罰として不妊になったわけでもありません。
ただただ、神様がなんらかの意味を持って、私に不妊の道を歩ませているのだと。
そう思うことにだけ、救いがあります。