ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜サラ①〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

聖書で最初に登場する不妊の女性は、アブラハムの妻であり創世記11章から名前が出てくる「サラ」です。

サラは非常に容姿の美しい女性でした。
美しいことは大変羨ましいことなのですが、聖書の中でサラが美しいことで得をしている様子は描かれていません。むしろ厄介なことしかありません
なんと約60歳の頃(創世記12章)にも、約80歳の頃(創世記20章)にも、その美しさゆえに王や高官に気に入られ、夫アブラハムには妻であることを隠すように言われました。
そして嘘をついて隠したことによって、王や高官には災難が降りかかり、アブラハムと彼らとの関係性が壊れてしまいました。
愛する夫から、妻であることを隠すように言われたサラは、どんな気持ちだったのでしょう。
なぜ妻であるとしっかり主張してくれないのだろう。自分が美しいからいけないのだろうか。夫にとって自分は何なんだろうかと思ったのではないかと思います。
この箇所は、神様が守ってくださることへの信頼をせずに嘘をついたアブラハムの失敗、として語られる場面ですが、サラの気持ちも考えると、アブラハムとサラの関係にヒビが入るような出来事だったんではないかと深読みしてしまいます。

 

創世記15章では、神様から、将来起こされるアブラハムの子孫について語られます。
アブラハムの子孫は繁栄すること、それが奴隷によってではないことが神様から語られ、つまりはサラに子どもが与えられることが明らかに示唆されていました。
しかしアブラハムもサラもすでに高齢になっていたため、それを信じられていなかったのだと、後の文脈からわかります。

 

そしていよいよ創世記16章では、サラが不妊であることに焦点が当たります。
サラは自分が不妊であることから、なんと女奴隷ハガルを第二夫人のようにして、ハガルとの間にこどもを作ったらどうかとアブラハムに提案します
当時は、妻が不妊の場合には夫に女奴隷を与えるように求められ、生まれた子どもは妻の子とみなされる、という事が一般的な慣習だったようです。
当時の慣習からすれば普通のことにしても、夫が他の女性との子どもを作ることを妻自らが促すことは、どれほどの葛藤があったのだろうと思います。

16章2節「たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」という言葉に、サラの思いが表れていると感じます。
サラはもう高齢になっていて、自分が子どもを産むことは完全に諦めていた、もう無理だから仕方ないと割り切っていたのではないかと思います。
「子どもが欲しい、子どもが与えられなくて辛い」という段階はとうに超えていたのです
けれど、「どうしても母になりたい」という思い、あるいは「不妊の女性としてこれ以上辱めを受けたくない」という思いから、他の女性との結婚を薦めたのではないかと思います。

神様の言葉を信じられずに自分で無理やり解決策を探してしまったアブラハムとサラの不信仰の問題として語られる箇所ですが、サラだってこんなことをしなくて済むなら、絶対にしたくなかったはずです。
何十年も不妊として辱められながら生きてきた中で、信じること、期待することに疲れ、今更子どもが与えられると言われても信じる事が怖かったのではないかと思います。

新約聖書の時代に、イエス様が障がいのある方や病気の方に対して奇跡を行う際に、何かと「よくなりたいか」「わたしに何をして欲しいのか」とあえて尋ねていたことを思い出します。
変わらない現実に何度も何度も落胆する中でも、神様に信頼して、自分の本当の求めをぶつけていく事が求められているのだと感じます。

 

すでに長くなってしまいましたので、創世記16章後半以降のお話は次の更新の際に書かせていただきます。