ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

積み重ねられないもどかしさ

この経験したことのない もどかしさはなんなんでしょう。

どんな経験も投資も、大体のことは積み重ねだったように感じます。
仕事にしても、勉強にしても、習い事にしても。
失敗しちゃったな、素質ないな、と思っても、経験したり努力したりしたことはスキルとして積み重ねられていき、完全に無駄なことなんてない、と思ってきました。

でも妊娠についてはそうではなく、よく「リセット」と言われるように、毎月完全に初期状態に、ゼロに戻ってしまいます。
今回惜しかった〜95点だったよ、次回はあと5点取れればいいからね!ということではなく、惜しかったとしても全然ダメだったとしても、結局原点に戻ってしまいます。
ゲームで言えば、データのセーブができないので、初戦で敗退しても、ラスボス前にゲームオーバーになった場合も、最初からやり直しになってしまうのと同じです。
あるいは、10000個に1個しか当たりがないクジ、それも、引いたハズレくじを毎回元に戻すスタイルのクジ引きを繰り返して、何度やっても期待値が上がらないというような感じです。(伝わりますか・・・?)
最近は期待しなくなったので良いのですが、期待していた頃は、リセットがわかる度に「え、嘘でしょ・・・」「なんで、またやり直し・・・?」と頭が真っ白になっていました。

 

原因がわかっていて治療している場合には、状況改善に向けて薬を飲んだり注射を打ったりして蓄積されているものもあるかと思いますが、私のように原因がわからない場合には蓄積がありません
治療に費やしたお金や時間は戻ってきません。

 

そのため、先日実家と電話をして、「え、もうやめちゃうの?」「人工授精2回しかしないの?」と言われた時には、もやもやしました。
回数を重ねればどうにかなるものではないんだもの。
毎回ゼロからやり直しなんだもの。

 

積み重ねていけない、自分の努力ではどうにもできないことだから、もどかしいし疲れてしまいます。
重荷の全てを神様の前に下ろして、休ませていただきたいなあと思います。

二度目の人工授精

今日、2度目の人工授精をしにクリニックに行ってきました。
人工授精は受付が17時までと普通の診察よりも早く、平日には行きにくいため、先月も今月もちょうど土曜日にあたってくれたことは、神様のご配慮に感謝です。
ただやっぱり、土曜日は混んでいます
私と同世代くらい(20代後半〜30代前半くらい)に見える比較的若い方々が多く、みんなそうだよなあ、平日は仕事休んだり、職場に事情を話して融通きかせてもらったりできないもんなあ、まだ若いから焦らなくていいんじゃないとか言われちゃうもんなあ・・・と勝手に慮ってしまいます。

 

受付から1時間ほど待って、人工授精をしました。
1回目の時のような鋭い痛みはありませんでしたが、ちょっと生理痛のような重い不快感がありました。
その後、もうすぐ排卵しそうではあるけれど念のため、ということで、排卵誘発の注射をしていただきました。
これが筋肉注射だからか、痛い。 
針が刺さる時よりも、薬が入る時に痛い( ; ; )
(私が肩の力を抜けていないせいなのですが・・・)

こんな痛みなんて序の口で、妊婦さんはもっと日々痛みをたくさん経験しているし、出産の時にも死ぬほど痛いんだってことは頭ではわかります。
でも不妊治療にしても、めでたく出産するにしても、なんで女性ばっかりこんな痛い思いしないといけないんだと思ってしまいます・・・。
まあ、この「なんで」は、説明や答えを求めている「なんで」ではないんですけどね。

 

お会計は今日だけで約27000円、保険がきかないのは痛いです。
次回の予約は取らずに帰ってきてしまいました。
排卵したかどうかの確認だけでまた5000円近くもかかってしまうんだと思うと、躊躇ってしまいました。

 

今回の人工授精で妊娠が成立するかどうかはわかりませんし、期待もしていません。
そのことは神様にさえも期待していません。
1サムエル記のハンナの祈りから、もっと神様に期待して貪欲に具体的に祈っていいんだと学ばされましたが、私はハンナほど、絶対にこどもが欲しいと思っているのか、自分でわからなくなってきました。


ただ一つ神様に期待しているのは、いつでも最善のことをなさる方である、ということです。
今回か、いつの日か、こどもを授かることが私たち夫婦にとって最善なのであれば、どのような形であれ必ず与えてくださるし、
与えられないことが最善なのであれば、それは不幸なことではなく、私たちにとって一番良いあり方なのだと思います。
今回どうなっても、それが最善なんだと受け入れて、気持ちを切り替えてまた新しい月を迎えたいと思います。

人工授精 2周期目突入

人工授精に初めて挑んだ先月でしたが、実を結ぶことはありませんでした。
生理予定日から1日ほど遅れたので淡〜い期待を持っていましたが、その期待は淡いまま、無惨にも砕け散りました。
逆に1日遅れで済んでよかったかもしれません。
5〜6日遅れていたら確実に、屋上から地面へ突き落とされるような感覚になっていたと思います。

 

そんなわけで、今週から人工授精2周期目に入りました。
今日クリニックで薬などをもらってきましたが、先生方と話していても1ミリも期待していない自分がいました。

「今月も排卵誘発剤出しますから、明後日から飲んでくださいね」
(私の場合、排卵に異常があるわけではないんだから、これ飲んでもなあ・・・)

「こちらのサプリ、飲み続けててくださいね。そしたら数値が改善して、妊娠しやすくなるかもしれませんからね。」
(ニンシン・・・?あ、そっか、私、妊娠するためにここに来ていたんだった。)

クリニックにいる間は、色々考えてしまうと感情がセーブできなくなってしまいそうなので、なるべく思考停止したり、先生との受け答えだけに集中したりしていたのですが、考えなさすぎてロボットのようになっていたのだと気づきました。
そんな風にして、いつの間にか半年以上の月日が経っていました。

 

半年前もいた。先月もいた。そして来月もまだいるんだろう。
なんだか急に悔しくなって、クリニックを出る頃には涙が溢れそうになっていました。
誰が悪いわけでも、誰かを責めたいわけでもありません。
先生方はベストを尽くして親切に接してくださって、とても居心地がいい空間を作ってくださっています。
強いていえば、理由もわからないままいつまでも卒業できずに、思考停止しながら通い続けている自分に、虚しさともどかしさを感じました。

 

ここでふと、頭に浮かんだ聖書の一節がありました。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ルカの福音書22章32節(イエス様がペテロの裏切りを預言して語られた言葉)

 

今は落ち込んでもいいんだ、今は泣いてもいいんだ、神様に文句言ってもいいんだ、
エス様はそれでも私の信仰がなくならないように、祈ってくれているんだ。
いつか立ち直った時には、この経験を通しても、誰かを励ますことができるんだ。

 

本当は信仰と希望に溢れて、不妊治療しながらも神様を賛美して感謝して歩めたら、どんなによかったかと思います。
そんな理想とはかけ離れた、信仰も希望もない、低空飛行な状態で2周期目に入りますが、それさえも受け入れられていることのめぐみを感じます。

喜ぶ者と共に喜べない人

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12章15節

非常にシンプルで、これ以上ないくらいに具体的で分かりやすい教えです。
しかし、実行するのは非常に難しい言葉です。


私にとっては、泣く者と共に泣くことはできても、喜ぶ者と共に喜ぶことはとても難しいです。
自己中な偽善者で、他人の幸せを自分の幸せとして受け取ることが難しい者です。
不妊と向き合う中で、そのことを痛いほど思い知らされてきました。

 

でも、ふと気づかされました。
聖書の中に登場した人々は、私のように「喜ぶ者と共に喜べなかった人」ばかりではないか、と。

例を挙げていくと、

・弟アベルの捧げ物が神様に褒められたことを、快く思わなかった兄カイン
ダビデの成功を妬んだサウル王
・ニネベの町が改心し、裁かれずに済んだことに怒りを抱いたヨナ
・弟の帰還を喜べなかった放蕩息子の兄
・・・などなど。

 

神様はこのことが人間にとってどれほど難しいことか、ちゃんとご存知なのだと思います。
やればできる!ということだから命じられているのではなく、難しいことだからこそ諭されているのだなと思わされます。

 

それならば、私が喜ぶときに1人でも一緒に喜んでくれる人がいるなら、私が泣く時に1人でも一緒に泣いてくれる人がいるのなら、 それはどれほど貴重なことかと思います。
不妊のこと一つとっても、一緒に心を痛めて、一緒に泣いてくださった方々のことを思う時、自分がいかに恵まれているかを痛感します。

 

「喜ぶ者と共に喜べない者」に過ぎない私ですが、いつか他人の幸せを自分の幸せにできる人となれるように、一歩一歩変えられていきたいと思います。

 

声をあげる意味

出る杭は打たれる。
"わきまえない女”は叩かれる。
でも、いつの時代も社会を動かす原動力になってきたのは、有名無名問わず、声をあげ続けた人たちだったのではないでしょうか。

 

声をあげるとき、必ずその意見にはアンチも出てきて、目立つようになればなるほど反対意見も目に入りやすくなるようになる。
自分の課題についても他人の課題についても、社会の課題についても、黙っていられれば誰からも叩かれない
その場その場の多数派に合わせてコメントしていれば、賢い立ち振る舞いとみなされるかもしれません。

 

一方、最近よく私の頭に思い浮かぶのは、ドイツの神学者マルティン・ニーメラーの詩です。

ナチス共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。
なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。
なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
労働組合委員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。
だって労働組合員ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった。


自分が当事者でないことについては、関心や問題意識を持ちにくいものです。
Twitterを見ていると、社会が分断されているのを強く感じます。
不妊についてのトピックは同じく不妊の方々が多くコメントを寄せていて、出産についてのトピックは妊婦の方々が多くコメントを寄せています。(ある意味当然ですし、それ自体が悪い、ということでは決してありませんが)
不妊治療の保険適用の話にしても、自分が不妊の当事者でなければどうでもいいことで、むしろ大切な税金をそんなことに使わないでと思う人がいるのも仕方ないかもしれません。


そういう意味では、すでに出産・子育てを経験している友人の中でも、私のために祈ってくれている方々がいるのは大変ありがたいことです。
自分が経験したことのないことでも、社会の中で何か痛みを覚えている人がいるのであれば、その声をしっかりと聞いて、それに応えるような社会の仕組みを作っていけるように、一緒に声をあげていける人になりたいなあと思います。
社会がそのような一人一人の声を共有し合って、一つ一つ解決していくことを積み重ねることによって、誰にとっても住みやすい社会になるのではと思います。

 

・・・とはいえ私自身、自分が当事者のことや、身近な人が経験していること以外についてはイメージを持ちにくく、関心を向けにくいというのも正直あります。
それならせめて、まずは自分が当事者として体験していることと、身近な人が悩んでいることについてだけでも、しっかり声をあげていきたいと思います。

「私のために声をあげる人は一人もいなかった。」
そんな状況が来る前に。

 

8%にかける意味

今周期は初めての人工授精にチャレンジということで、排卵日の直前にあたる今日、初めて処置をしてもらいに行ってきました。

流れとしては①診察(排卵しそうかどうかを確認)→ ②念のため排卵誘発の注射 → ③ 人工授精 → ④会計 という形でした。
お盆時期の土曜日ということで、とにかく混んでいました。密。
そんなわけで①〜④の過程で30分ずつくらい待ち、全体で2時間以上かかりました。

自分の無知のために、②の排卵誘発の注射の時にちょっと驚いたのが、「肩とお尻、どっちがいいですか?」と聞かれたことです。
「え、お尻という選択肢があるのですか?」と、思わず聞き返してしまいました。
注射と聞いて勝手に腕だと思い込んでいたのですが、筋肉注射の場合にはお尻ということも多くあるようですね。(クリニックによってはお尻への注射がデフォルトというところもあるようです。)
選択肢を与えられると迷ってしまうもので、
(うーん、不妊専門のクリニックなのでお尻を見せることにも慣れてはいるけれど、あえてお尻にしなくてもいいかなあ、うーん・・・。)
としばらく悩んでから、結局、肩にしてもらいました。笑
待たせてしまったので焦ってシャツを脱いだら、「ブチッ」と音がして服の縫い目がちょっと破れてしまいました。
しかも「肩」と言っても腕の上の方のことで、脱がなくても腕まくりすればよかったんですよね。(アホすぎる・・・。)
筋肉注射なので、ワクチン接種と同じような感覚で、結構痛かったです。


人工授精は普通の診察と同じような感じで行われ、これもかなり痛かったです。
普通の排卵確認の診察でも、たまにめっちゃ痛いタイミングがあるんですが、それと同じくらいの感じでした。

費用としては今日だけでトータル約3万円の出費でした。
私が学生時代に暮らしていたアパートの家賃と同じくらいです。なかなか辛い金額です。

 

人工授精での妊娠率は8%(自然妊娠より8%高い)と言われています。
たった8%のためにここまでの時間とお金を費やし、痛みを伴ってまで実施するのは無駄だと思う人もいるかもしれません。
でもそれをいうなら、夫婦生活を持っていても1年間妊娠しない人=不妊の人は、10%程度しかいないわけです。
さらに言えば、日本のクリスチャン人口は1%未満です。

%で見てしまうと、10%以下のことはまず自分には関係ないこと、起こり得ないことと思ってしまいます。

しかし現に10%以下の事柄が色々と自分の身に当てはまっているのだから、ゼロでないのなら無視すべきではない、と個人的には考えています。

 

いま自分が不妊であり、クリスチャンであることと同じように、8%の確率であっても起こる時には起こる。
人工授精というツールを用いることが神様の御心なのであれば、それは起こる。
そうでないのなら、また別の道を受け入れていけばいいと、そう言い聞かせています。

 

営業トークから見えた価値観

毎週注文した商品を届けてくれる生協のお兄さんが、今日は共済のチラシを持ってやってきました。

ちょうど共済か保険に入ったほうがいいかなと考えているところだったのと、いつも一生懸命なお兄さんなので、共済の営業の話も聞いてみようかなと思って聞いてみました。

ところが・・・

まず最初の会話が
「お子さんいますか?」
「いえ、いません」
「まだなんですね」
というお決まりのもの。


こどもがいるかどうかでお勧めするプランが変わってくるので、そこをまず確認する必要がある、というのはわかります。
ただ、こどもがいるのが当然、いないならいつか作るのが当然、というのが前提にあるやりとりなのが気になりました。

そのあと続く営業トークでは、こどもはいないって言っているのに、なぜか私のことを「お母さん」と呼んで会話を続けます。
生協の組合員って、こどもがいない人はそんなに珍しいんだろうか。
または女性のことはとにかく「お母さん」と呼ぶように指導されているんだろうかと思ってしまいました。

 

「ではお母さんには、こちらのプランがお勧めです。女性特有の病気・治療にはプラスで保険金がおります。例えば帝王切開とか出産に関わる病気とか・・・」
お子さんができたらこのプランがお勧めです・・・」


いやいやちょっと待って、まだそういう段階にないです、なんで産む前提になっているんですかって思いました。

 

お兄さんが帰ってから、受け取った共済のチラシを見てみると、前面に「お母さん」「お父さん」「お子さん」という表記が。
こどもがいることが当たり前、もしくはファミリー層しか意識していない表記だなと感じました。
独身の時には、こういう表現をなんとも思っていなかったんですが、こどもが欲しくても与えられないという状況になってみると、刺さるものがあります。

 

営業をされたお兄さん個人を責めたいわけではありません。
お兄さんは猛暑の中頑張って配達してくれて、上から言われた通りに、慣れない営業トークを頑張っただけです。
それよりむしろ、お兄さんに営業トークを指導した方々、また元々の共済の案内を作るよう指導した方々の、家庭に対する思い込みや価値観の狭さを感じて、悲しくなりました。
営業する上で、こどもがいる家庭であることが大前提で、不妊の方々や、こどもを望まない家庭への配慮などは全くないのだなと感じました。
不妊の方々は本来のターゲット・営業対象ではないと言われてしまえば、それまでですが・・・。

 

不妊に限らず、家庭のあり方が多様化している中で、生協の営業トークがこんなにも狭い価値観に基づいているとなると、ゆくゆくはユーザー離れにつながってしまうんではないかと思います。
生協さんを応援したいと思っているからこそ、生協さんにはもうちょっと幅広い方々への配慮を頑張って欲しいなと思います。