ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

声をあげる意味

出る杭は打たれる。
"わきまえない女”は叩かれる。
でも、いつの時代も社会を動かす原動力になってきたのは、有名無名問わず、声をあげ続けた人たちだったのではないでしょうか。

 

声をあげるとき、必ずその意見にはアンチも出てきて、目立つようになればなるほど反対意見も目に入りやすくなるようになる。
自分の課題についても他人の課題についても、社会の課題についても、黙っていられれば誰からも叩かれない
その場その場の多数派に合わせてコメントしていれば、賢い立ち振る舞いとみなされるかもしれません。

 

一方、最近よく私の頭に思い浮かぶのは、ドイツの神学者マルティン・ニーメラーの詩です。

ナチス共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。
なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。
なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
労働組合委員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。
だって労働組合員ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった。


自分が当事者でないことについては、関心や問題意識を持ちにくいものです。
Twitterを見ていると、社会が分断されているのを強く感じます。
不妊についてのトピックは同じく不妊の方々が多くコメントを寄せていて、出産についてのトピックは妊婦の方々が多くコメントを寄せています。(ある意味当然ですし、それ自体が悪い、ということでは決してありませんが)
不妊治療の保険適用の話にしても、自分が不妊の当事者でなければどうでもいいことで、むしろ大切な税金をそんなことに使わないでと思う人がいるのも仕方ないかもしれません。


そういう意味では、すでに出産・子育てを経験している友人の中でも、私のために祈ってくれている方々がいるのは大変ありがたいことです。
自分が経験したことのないことでも、社会の中で何か痛みを覚えている人がいるのであれば、その声をしっかりと聞いて、それに応えるような社会の仕組みを作っていけるように、一緒に声をあげていける人になりたいなあと思います。
社会がそのような一人一人の声を共有し合って、一つ一つ解決していくことを積み重ねることによって、誰にとっても住みやすい社会になるのではと思います。

 

・・・とはいえ私自身、自分が当事者のことや、身近な人が経験していること以外についてはイメージを持ちにくく、関心を向けにくいというのも正直あります。
それならせめて、まずは自分が当事者として体験していることと、身近な人が悩んでいることについてだけでも、しっかり声をあげていきたいと思います。

「私のために声をあげる人は一人もいなかった。」
そんな状況が来る前に。