ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

人工授精はじめました

またリセットが来てしまい、今周期は人工授精にチャレンジすることにしました。
私たち夫婦の場合には精子数などに問題があるわけではないので、あまり人工授精の効果に期待はできないのですが、ずるずるとタイミング療法を続けるのに疑問もあったので、トライしてみることにしました。

人工授精はこれまでのタイミング療法の延長のようなもので、妊娠に至るプロセスも自然なものなので、決断する上で信仰的な葛藤などは個人的にはありませんでした。

 

・・・ただ、タイミング療法の時と大きく違うのは、経済的な面です。
これまでの排卵誘発剤を使ったタイミング療法は保険適用内だったので、月に数千円程度の負担で済み、ちょっとした習い事程度だなと思っていました。
ところが人工授精は現在は保険適用外で、助成金なども対象外です。
2〜3分先生とお話しして(生理中なので診察もなし)、排卵誘発剤を5錠受け取っただけで、3500円ほど。平均で月に3万円程度なのだそうです。
体外受精よりはずっと安いようですが、それでも実際払うことになってみると、じわじわとしんどく感じる金額です。
これはなかなか、何ヶ月も続けていくのは辛いですね。
保険って本当にありがたいんだなあと痛感します。


来年度から体外受精だけでなく人工授精も保険適用になるという記事を見かけたので、来年まで待てば良かったのですが、この時期にステップアップしたのには理由があります。
それは、もうそろそろ治療を終わらせたいなと思ったからです。


不妊治療を始めて半年。
長年治療を続けている人からしたら、たった半年間でこんなことを言うのは大変失礼な話かもしれませんが、この半年間、時間的にも経済的にも犠牲にしているものが多いなと感じてきました。
・このお金で遊びに行けたら・・・(←コロナ禍なので行ける場所限られていますが)
・このお金で習い事や資格勉強をして自分磨きをできたら・・・(←あまり続かないんですが)
・この時間を家族や友達と過ごせたら・・・(←コロナ禍なので夫と過ごすかオンラインしかないですが)
・この時間に残業をしてやるべきことをスムーズに回せたら・・・(←残業代出ない職場ですが)
犠牲を払っているのに成果が出ない状況が続いていると、徐々にモチベーションが落ちてきてしまいます。
人工授精を1、2回やってみて、ダメならダメで、もう治療はやめたいと。
諦めをつけるためにも、ステップアップをしようと思いました。

 

これは後ろ向きな発想のようで、私としては大きな前進でした。
不妊治療をするために生きているんじゃない、
生きて、笑ったり仕事したりお喋りしたりする中で、不妊という患難とも向き合っているだけなんだと。

治療をやめても、もし御心なら不思議なタイミングでこどもが与えられるかもしれないですし、与えられずに2人で生きていくことになったとしても、それはそれで良いと思うことにします。

 

まずは与えられた人工授精の機会、次の診察を忘れてすっぽかしたりしないように頑張ります(高いのでね・・・!)。

不妊と聖書〜サラ④〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

サラの不妊としての物語の最後、創世記21章です。
神様は約束された通りの時期に、サラに男の子イサクを与えられました。
アブラハムが100歳、サラが90代の頃のことです。

その際、サラの口からほぼ初めて、喜びと神様への賛美が滲み出たようなセリフが溢れました。

6節「神は私を笑われました。聞く者は皆、私に向かって笑うでしょう

7節「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

アブラハムを「あの年寄り」呼ばわりなのが軽くツボなのですが・・・w
卑屈に笑うしかなかった自分の人生を神様が用いてくださり、誰もが笑うような予想もできない奇跡を起こしてくださった、その喜びを、サラはしっかりと噛み締めているように思います。
神様が18章15節で「いや、確かにあなたは笑った。」と言ったのはこのためだったのではないかと思います。
サラに「笑った」という事実をしっかりと覚えさせて、その「笑い」がのちに全く異なる形、感謝と喜びと驚きに溢れた「笑い」へと昇華したことに想いを向けられるようにしたのかなと思います。


その子イサクの乳離れの日には大宴会をして祝いました。やったね!

 

・・・ところが、これでハッピーエンドではありません。
かつてサラの提案でアブラハムがめとったハガルには、イシュマエルという子どもがいて、イシュマエルとイサクとの間でいざこざが起こってしまいます。
その際のサラの対応はあまりに神経質なもので、ハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言います。

 

創世記では、人間同士のドロドロと、神様の約束の確かさコントラストがよく描かれていると感じます。
神様から奇跡のようにしてこどもが与えられて、その瞬間には感謝や賛美をできたサラも、他人が目に入った途端にまた気持ちが曇ってしまいます。

私もきっとそうなんだろうなあと思います。
こどもが欲しいと願う今は、こどもが与えられたら心から神様に感謝するだろうと思うのですが、いざこどもができたら、他のママさんと自分を比べたり、こども同士を比べて、不安になったり悩んだりして感謝なんて忘れてしまうだろうなあと思います。

 

サラの物語は、嫌になるくらいリアルです。
サラは全然いい人でも、信仰的な人でもありません。
それでも、サラのように、たとえ一瞬であっても感謝できる時に、自分の人生の中で素晴らしいことを行ってくださった神様への賛美と感謝を口にしていきたいと思います。

不妊と聖書〜サラ③〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

サラの物語のクライマックス、創世記17章〜18章です。


創世記17章で、アブラハムが99歳、サラが約90歳になった時、神様がアブラハムに現れて、アブラハムとサラの間に男の子が与えられることを伝えます。
しかしアブラハムは自分とサラの年齢を考えて、そんなことがありうるだろうかと疑いました。

その後、創世記18章では神様から遣わされた3人の人がやってきて、今度はサラも居合わせている場で、「来年の今頃、サラには男の子が与えられる」と伝えました。
それを聞いたサラが心の中で言ったセリフ(12節)が、なかなか興味深いです。
「老いぼれてしまったこの私に、なんの楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
予想の斜め上をいくコメント(?)ですね。
今さら子どもが与えられるなんてあり得ない!という妊娠とか出産に限定したコメントではなく、自分のことも夫のことも「老ぼれ」とみなして、もうなんの楽しみもない、と、かなり卑屈になっているのが読み取れます。
サラは神様の祝福を得られない(とみなされていた)自分の人生を、呪ってしまっていたのかなと思います。

一方、神様は「サラはなぜ・・・(中略)・・・笑うのか。主に不可能なことがあろうか。」と叱ります。
サラは恐ろしくなって「私は笑いませんでした」と嘘をついて打ち消しましたが、神様は「いや、確かにあなたは笑った。」と言い残しました。

 

サラの心の中にはいろんな思いが渦巻いていたのではないかと思います。
神様に不可能なことがないのなら、なぜこれまでこどもを与えてくれなかったのか。
なぜこんなに卑屈になるまで、私を放っておいたのか。
笑いが出てしまうほどの境遇を味わせてきたのに、なぜ笑ったことを責めるのか。

(この「笑い」がのちのキーワードになっていくので、神様は責めるためにこの言葉を言ったわけではないことがわかるのですが、この時点ではただ笑ったことを咎められたように読めてしまいます。)

サラが笑ったことは不信仰からだったかもしれませんが、嘘をついて隠す必要はありませんでした。
なぜならサラの葛藤も悩みも、笑ってしまうほどの境遇も、全て神様はご存知だったからです。
「神様、なんてつまらないご冗談をおっしゃるんですか!こんな年寄りになるまで放っておいて、今さらそんなおかしな話がありますか!」って、笑いながらぶつけても良かったのかなと思います。
でももしかしたら、神様にその思いを伝えることを拒否するほどに、サラは傷ついていたのかもしれない、とも思います。

私も不妊とわかってから、卑屈になってしまうことがよくありました。
なんで?なんで?と頭の中が怒りの疑問符だらけになることがよくありました。
自暴自棄になって割り切ろうと思ったこともありました。
でもこの箇所での、卑屈になって第二夫人をいじめたり、神様の言葉をもはや信じられずに本音での対話も拒んだりしたサラにさえも、神様が向き合い続けてくださり、働きかけてくださったことは大きな救いだと感じます。

 

次回は創世記21章、サラの話は次で終わりにしようと思います。

不妊と聖書〜サラ②〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

 

アブラハムの妻サラのお話の続きです。
創世記16章の展開は昼ドラ並みにドロドロしています。

 

サラの提案を受けたアブラハムは女奴隷ハガルも妻とし、サラの狙い通り、アブラハムとハガルの間にはすぐに子どもが与えられます。
(「狙い通り」とはいえ、ハガルにすぐに子どもが与えられたことに複雑な思いがなかったはずはない、と不妊の私は思ってしまいます。)
ところがハガルは妊娠したことがわかると、横柄な態度になり、サラのことを見下げるようになりました
これは大変です。サラは子どもがいない苦しみから解放されるためにハガルとの結婚を勧めたのに、そのハガルが「妊婦様」になってサラを苦しめる存在となってしまったということです。
もしかしたら、「横柄な態度」と書かれてはいますが、「奴隷のくせに」「外国人のくせに」などの偏見や、「妊娠できて羨ましい」という嫉妬などの、サラの見方のフィルターが入ってていたではないか・・・と勘ぐってしまいます。
自分の提案だったにも関わらず、サラはハガルの妊娠とその横柄な態度に、また自分の中の嫉妬や劣等感などの感情に向き合わされ、怒りが頂点に達しました。

 

その後、5節でサラは夫アブラハムに「ハガルの横柄さはあなたのせいだ」と言って、アブラハムを責め立てます
どこへ持っていったらいいかわからない怒りを、アブラハムにぶつけてしまったのです。これはもはや八つ当たりです。
責められたアブラハムはこの問題と全く向き合おうとせず、あろうことかサラに対して「ハガルをあなたの好きなようにしなさい」と言いました。
サラの物語として読んでいくと、アブラハムは全く主体性も解決能力もない人だと感じてしまいます。
アブラハムの言葉を受けて、サラはハガルが逃げ出すまでいじめ抜きます

 

この箇所でのサラは完全に、今で言う不妊様」になってしまっていると思います。
ベストの選択ではないと知りつつも自分で招いたことなのに、夫を咎め、妊婦のハガルを憎み、いじめました。
誰が見てもこれは問題のある行動なのですが、サラだって自分に子どもが与えられてさえいればこんなことにはならなかったのに・・・と惨めに思っていたと思います。
アブラハムが信仰の父と言われるのに対し、サラが神様に祈り求める場面の描写はほとんどありません。(単にさほど重要人物ではないからかもしれませんが)
サラも、自分のどこに持っていったらいいのかわからない感情を、もっと神様の前に投げ出して良かったのではと思うのですが、何十年も不妊で苦しみ完全に諦めてしまった中で、神様への信頼が薄れてしまっていたのかもしれません。

 

いじめを受けて逃げ出したハガルは神様から「あなたははどこから来て、どこへ行くのか」「あなたの女主人(サラ)のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」「あなたの子孫は(中略)数えきれないほどになる」という言葉をかけられます。
神様からの励ましと助言を受けて、ハガルはアブラハムとサラの元へ戻り、息子イシュマエルを出産します。
サラがどんな風にハガルを迎えたのか、大変興味深いのですが、聖書にはその描写はありません。
その後しばらくはまた一緒に暮らしたわけなので、神様の言葉を受けてハガルが態度を改めたことで、少し和解できたのかもしれません。
サラももともといじめが目的ではなかったので、ハガルが逃げている間に少し落ち着いて、反省したのかもしれません。

創世記15章・16章は、無責任なアブラハム不妊様のサラ・妊婦様のハガルそれぞれの過ちが示される中で、アブラハムとサラという長年不妊の夫婦にも、アブラハムとハガルという政略結婚のような夫婦にも、それぞれに神様が語りかけ祝福してくださったことが読み取れる箇所でした。

 

次回はサラの物語のクライマックス(?)の創世記17章〜18章について書かせていただきます!

不妊と聖書〜サラ①〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。

 

聖書で最初に登場する不妊の女性は、アブラハムの妻であり創世記11章から名前が出てくる「サラ」です。

サラは非常に容姿の美しい女性でした。
美しいことは大変羨ましいことなのですが、聖書の中でサラが美しいことで得をしている様子は描かれていません。むしろ厄介なことしかありません
なんと約60歳の頃(創世記12章)にも、約80歳の頃(創世記20章)にも、その美しさゆえに王や高官に気に入られ、夫アブラハムには妻であることを隠すように言われました。
そして嘘をついて隠したことによって、王や高官には災難が降りかかり、アブラハムと彼らとの関係性が壊れてしまいました。
愛する夫から、妻であることを隠すように言われたサラは、どんな気持ちだったのでしょう。
なぜ妻であるとしっかり主張してくれないのだろう。自分が美しいからいけないのだろうか。夫にとって自分は何なんだろうかと思ったのではないかと思います。
この箇所は、神様が守ってくださることへの信頼をせずに嘘をついたアブラハムの失敗、として語られる場面ですが、サラの気持ちも考えると、アブラハムとサラの関係にヒビが入るような出来事だったんではないかと深読みしてしまいます。

 

創世記15章では、神様から、将来起こされるアブラハムの子孫について語られます。
アブラハムの子孫は繁栄すること、それが奴隷によってではないことが神様から語られ、つまりはサラに子どもが与えられることが明らかに示唆されていました。
しかしアブラハムもサラもすでに高齢になっていたため、それを信じられていなかったのだと、後の文脈からわかります。

 

そしていよいよ創世記16章では、サラが不妊であることに焦点が当たります。
サラは自分が不妊であることから、なんと女奴隷ハガルを第二夫人のようにして、ハガルとの間にこどもを作ったらどうかとアブラハムに提案します
当時は、妻が不妊の場合には夫に女奴隷を与えるように求められ、生まれた子どもは妻の子とみなされる、という事が一般的な慣習だったようです。
当時の慣習からすれば普通のことにしても、夫が他の女性との子どもを作ることを妻自らが促すことは、どれほどの葛藤があったのだろうと思います。

16章2節「たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」という言葉に、サラの思いが表れていると感じます。
サラはもう高齢になっていて、自分が子どもを産むことは完全に諦めていた、もう無理だから仕方ないと割り切っていたのではないかと思います。
「子どもが欲しい、子どもが与えられなくて辛い」という段階はとうに超えていたのです
けれど、「どうしても母になりたい」という思い、あるいは「不妊の女性としてこれ以上辱めを受けたくない」という思いから、他の女性との結婚を薦めたのではないかと思います。

神様の言葉を信じられずに自分で無理やり解決策を探してしまったアブラハムとサラの不信仰の問題として語られる箇所ですが、サラだってこんなことをしなくて済むなら、絶対にしたくなかったはずです。
何十年も不妊として辱められながら生きてきた中で、信じること、期待することに疲れ、今更子どもが与えられると言われても信じる事が怖かったのではないかと思います。

新約聖書の時代に、イエス様が障がいのある方や病気の方に対して奇跡を行う際に、何かと「よくなりたいか」「わたしに何をして欲しいのか」とあえて尋ねていたことを思い出します。
変わらない現実に何度も何度も落胆する中でも、神様に信頼して、自分の本当の求めをぶつけていく事が求められているのだと感じます。

 

すでに長くなってしまいましたので、創世記16章後半以降のお話は次の更新の際に書かせていただきます。

 

不妊治療の保険適用

2022年4月から体外受精などこれまで保険適用対象外だった不妊治療の一部において、保険が適用されることになるということ、当事者としては大変ありがたいことです。

 

ただ、見るべきではないと思いつつ、ネット上での賛否両論の声を見ていると、辛くなります。

不妊治療は自分のお金だけでやるべきだとか、自然に授かれないなら諦めるべきだとか、不妊治療が保険適用になったら高額な医療を際限なく受けることを促してしまうのではとか。

高額な医療は保険適用にすべきでないというのは、たまたま自分がそれを必要としたことがなかったからそう思うのではないでしょうか。

「自然」ってどこまでを指すのでしょうか。病気になっても治療しないことが自然でしょうか。

保険適用になったところで、1回に何万円も何十万円もかかることには変わらず、毎日注射を打ったり仕事を休んだりしなければならない負担もあるのに、際限なく受けようと思うでしょうか。

 

当事者でなければ、なんだって言えます。
顔の見えない人に対してなら、なんだって言えます。

保険適用が議論されるようになったことは望ましい風潮だと思うのですが、社会の中で不妊についての理解が深まって、不妊の方々が経済的にも精神的にも生きやすい世の中になるまでには、まだまだ時間がかかりそうだと感じてしまいます。

クリニックで思うこと

またリセットしてしまいましたので、クリニックに行ってきました。
クリニックではプライバシーへの配慮の関係で、診察券番号で呼ばれます
配慮が行き届いているなあと思うと同時に、囚人にでもなったような気分でもあります。
「見知らぬ人にさえ知られたくないようなこと」をしているということかと思うと、肩身狭く感じます。

 

せっかくクリニック側がそのような配慮をしているのだから、あまり他の患者さんに関心を持つべきではないと思うのですが、待ち時間が長いとつい人間観察をしてしまいます。
仲良さそうに夫婦で来て、待合室でも笑顔で話しているカップル。
でもその笑顔の奥でどれだけの涙や葛藤があって、ここに来られたのだろう・・・とか。

呼ばれる診察券番号が小さい方は、それだけ長い間不妊治療をしてきた方。
その方はどれほどの忍耐を持ってここへ通い続け、治療をし続けているのだろう・・・とか。

土曜日には人が溢れかえり、受付から退出まで2〜3時間かかることもあります。
そんな時、この街にはこんなにも悩みながら不妊治療をしている人が大勢いるんだ、そして多くの人が仕事を優先せざるを得ない状況の中で長時間待たされる覚悟で土曜日に来ているんだ・・・と感じます。

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。』出エジプト3章7節」

 

神様は私の苦しみ・痛みを確かにご存知です。
そしてこの街でこの国でこの世界で、同じように不妊で悩む人々の苦しみもご存知です。
神様どうか、不妊を通して肉体的・精神的・時間的・経済的に苦しんでいる私たちに、光を与えてください。