ハンナの憂い

不妊治療中のクリスチャンのブログです。

不妊と聖書〜ハンナ②〜

※私は体系的に神学を学んだわけではないので、釈義や解説ではなく、あくまで一個人の黙想と捉えていただければと思います。 

 

前回の1サムエル記1章のハンナのお話の続きです。

 

②ハンナの祈り

ハンナは不妊という現実と、周囲からのいじめや無理解に心を痛め、激しく泣いて、祈ります
11節「万軍の主よ。もし、あなたがはしため(ハンナ)の苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしため(ハンナ)を忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

まずは、この祈りのスタイルについて。

ハンナはこどもが欲しいあまり、神様と取引することをもいとわず、条件付きの祈りをします。
聖書では神様を試すようなことをしてはいけないと語られつつも、このハンナやギデオン、アブラハムなど、切実に神様と向き合う中で、神様と取引をするような信仰のあり方も描かれています。
ハンナの祈りを見ていると、自分の祈りは「聞き分けの良すぎる子」の祈りだったのかもしれないな〜と思わされます。
こどもが与えられない日々が続き、期待することが怖くなり、半ば諦めながら「神様の御心なら、こどもが欲しいと思っています。でもそれが最善かどうか私にはわからないので、神様の最善をなしてください。」というような祈りばかりになっていたなと思います。
その祈り方自体が必ずしも悪いわけではないにしても、私はいつの間にか、神様にさえ期待するのをやめてしまっていたのかもしれません。
神様は私が祈るまでもなく私の心を全てご存知のお方ではありますが、私が本音をぶつけることを望んでおられる方でもあります。
ハンナのように自分の苦しみと願いを、神様の前に注ぎ出す必要があるのだなと思わされます。

続いて、後半のハンナが挙げた条件に注目してみます。
生まれてくる男の子の一生を主にお渡しします、と祈っています。

現代では一般的に考えれば、こどもの人生はこどものものであり、親の価値観や期待の押し付けはこどもを束縛することになるため、「こどもが与えられたらその子の一生をこういう風にします」と祈ることは親のエゴではないかと思ってしまいます。
とはいえ、現代でもこどもの名付けなどにはその感覚が残っているのではとも思います。
明るい子に育って欲しいから明るいイメージのある漢字を入れたり、この偉人のようになって欲しいから偉人の名前に因んだ名前をつけたり。
親としての愛があるなら、こんな風に育って欲しい、こんな人になって欲しい、という思いがあるのは当然のこととも思います。
ハンナにしてみれば、生まれてくるこどもが神様と共に歩み、神様がその子の人生を導いてくださるのなら、それ以上は何も望まない、という思いだったのかもしれません。
逆に言えば、その子の一生を神様にお渡しするということは、その子は神様にだけ従ってくれれば良く、その子の人生に対してハンナ自身の期待の押し付けはしませんよ、ということかもしれません。


かましく、親のエゴのようにも読めてしまうこのハンナの祈りが、神様に聞き入れられたことは、とても不思議で、示唆に富んでいると思います。

 

また長くなってしまったので、一旦今回の記事はここまでにして、続きは次回更新します。